田んぼは2度目の代かきをして(代かき中に田んぼの中に亀目撃しました)、あぜを直して(イノシシに掘られて低くなってたところに盛り土)、高低差を直しました(レーキで浅いところから深いところへ押したり引っ張ったり)。
緑肥(菜の花)除草はどうかとはりきっていたのですが、雑草に負けて生育が悪かったので、あまり効果は期待できなさそうで、田植え直前か直後にぬかをまいて、それから小さな田んぼは除草機を押してみようかな?
田植えはできれば水曜日で、前日に最後の代かきをしてそれから水漏り対策のあぜマルチを張ることにしました。つまりうすーいプラスチックのシートをあぜにそって張るだけなんですが、なんでもこれを簡単にやってしまう道具があるとかで山崎さんから借ります(なんでも山崎さんからです。山崎さん、ありがとう)。それにしてもいろいろ面白い機械があるものです。
ただお米をとる、という以上に、こうすればああなるというような作業の効果を見るのが楽しかったりします。同じ目的を目指していてもいろいろ違う「技」を駆使することで、収量が上がったり、おいしくなったり、楽になったりするわけですが、もちろん全てがうまくいくはずもなく、失敗してもまたそれを肥やしにして次につなげていくという過程も、楽に沢山のおいしいものを得るという結果に劣らず、いい充実感を与えてくれます。
ただこういう充実した仕事をしていると、(自分から見ると)非常に単調な仕事をしている他の人たち(宅配便の配達とか役所で事務仕事をしている人とか)になんだか申し訳ないような気になってくることもあり、ある意味そういう仕事を続けている人に対して尊敬の念を抱くようにもなりました。毎日同じことをもくもくと続けるなんて自分にはとてもできないことなので。
ただそういう人たちがいなければ社会がまわっていかないのも確かであり、また自分のやっていることも他の人の支えがあってこそできることであり、もちろんそれなりの金銭的対価は払っているつもりですが、やはりお金とそれ以外のことを自分のまわりにいる同じように頑張っている人たちに還元すること提供するということ(例えばおいしいパンを焼いたりすること)が大事なんだと改めて思います。
月並みな言い方になりますが、自分のしたことが相手の喜びになるならば、自分にとってそれ以上の喜びはなく、例えばそればパン屋ならば、自分の作ったパンがおいしく食べてもらえるならば、それはおいしいパンを食べることができる喜びと作ったパンをおいしく食べてもらえる喜びの両方を生み出すことになり、それはパン一個の値段のみでは到底表すことのできない価値があるということです。
じゃあそうするには何をすればよいかというと、これは別段難しい問題でもなく、自分の仕事をしっかりやる、できることをやる、結局最後はこういうことになります。仕事論ですかね。そして仕事をきちんとやっている人に感謝する。やるべきことをやっている人はそれがどんな仕事であれ立派ですから。
...田んぼの中でどろんこになってレーキと鍬で土を動かしながらこんなこと考えてました。哲学の鍬。明日は筋肉痛かしら?